わたくし、高橋 記子とはどのような人間なのか、
もっと知って頂きたいと思い、自己紹介のページより詳しく
プロフィールを書くことにいたしました。
私のことを包み隠さず書くことで、同じような体験をされている方の
参考になれば幸いです。
そして、どうしてDV被害者自立支援をしたいと思ったのか、
ご理解いただければと思います。
では、まず、幼少期から書きたいと思います。
幼少期の記憶は、ほとんどありません。
幼稚園児の時から、離人症でした。
離人症とは、周囲の出来事や人、自分自身が現実感がなくなり、
自分が自分の観察者になったような状態になります。
自分の身体の後ろから自分を見ている自分がいる、という感覚でした。
感情の動きは乏しく、思考も遅く、鮮やかではありませんでした。
その状態はつらく、子供ながらに自分の状態が普通ではない気がしながらも、
「自分は他の人より出来が悪いからこうなのかな」とも思っていました。
また、その頃は、周りの子たちの輪に入れず、遠くから見ていました。
幼稚園の、自分以外の子たちが遊んでいるのを遠くから見ている自分、
を後ろから見ている自分がいました。
私は歓迎されていない、という思いがありました。
とても寂しく、悲しい気持ちでした。
小学生になると、いじめに遭いました。
嫌でも、やめてと言えませんでした。
いじめをする人は私のことが嫌いなんだ、と思っていましたが、
私は、なぜか、自分は嫌われる人間、だと思っていたので、
しかたがないと諦めていたように思います。
そして、勉強はまったく出来ませんでした。
教科に関わらず、教科書に書いてあることも、教師の話も
自分でも困るほど理解できないのです。
両親からは、勉強が出来ないことについて、いつも叱られていました。
「なぜ分からないんだ!」と叱られても、
理解できないことを親に話すことも出来ませんでした。
理解できていない、ということがわからなかったからです。
この時も、「私は、とくべつ出来が悪いのかもしれない」
と思っていました。
私が小学2年から、母はパチンコに夢中になっていました。
学校から帰っても母はパチンコで、夜になり夕飯の時間になるまで
帰っては来ませんでした。
その頃の記憶で、鮮明に残っているものがあります。
夜中に寝ていると、両親の怒鳴り合う声で目が覚めました。
両親が激しく言い争いをしていました。
私が布団から起き上がると、父が四つん這いになった母の上に
またがって、ネクタイをはずし、そのネクタイで母の首を絞めようと
しているところでした。
私は走って父に近寄り、「やめて!」とネクタイを取り上げました。
泣きながら、とても悲しく、恐ろしく感じていました。
ほとんど記憶がない中でも、この場面は鮮明に残っています。
離人症は、小学5年のある時、
全校集会へ向かい大勢で階段を下りていた時、
「あれ!?私、ここに居る!?」という強烈な自分の一体感と共に終わりました。
その後、マハトマ・ガンジーやキング牧師の映画を観て、
涙が止まらなかったことを憶えています。
子供心に、彼らの「人間としての尊厳や誇りを守る活動」
に感動したのです。
離人症だったということ、そして、その原因が分かるまで、
ずいぶん時間がかかりました。
離人症になった理由を書きます。
私は、父と父の愛人であった母の間に生まれました。
私の少ない幼少期の記憶をたどっていくと、一つの場面が出てきます。
父の本妻は、私を「けがらわしい」と言っていました。
私が父の子であることの認知をめぐって、
母、父、本妻、父の長女(異母姉)は、激しい言い争いをしていました。
なにを言っていたかは憶えていませんが、
私は隅でうずくまり「私が悪いんだ」と思って泣きじゃくっていました。
望まれないのに生まれてきた、とも感じていました。
とても悲しく、寂しかったです。
たぶん、私が3、4歳の頃の出来事です。
もしかすると、記憶にはありませんが、
似たような出来事が何度かあったのかもしれません。
父と母の言い争いが、絶えず起こっていた記憶はあります。
私の存在をめぐって、親をはじめ大人たちが言い争うなんて、悲しくて、
幼い私には、とうてい耐えられることではありませんでした。
罪悪感や、自分への否定的なイメージを抱いても仕方がないことです。
「私は受け入れられていない」「私は歓迎されない」という
思いは、この頃に出来上がったものです。
幼い私は、悲しみや状況から心を守るために、
そして生き延びるために離人したのです。
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