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プロフィール7 虚無期

更新日:2021年1月28日



奇跡的に住まいを得て、安定した収入を確保した私は、

それまでの人生が一変した感じがしました。

張り切ってサービス残業もし、慣れないながらも楽しんで

仕事をしていました。

自立できた気がしていました。

家事をこなし、セラピスト業も休日や夜間に行っていました。

セッションの依頼やセラピスト養成講座の受講生はどんどん増えました。

気が付けば3か月休みがない、ということがしばしばあり、

そんな日々が2年くらい続きました。

不眠になったり、しっかり寝ても徹夜でもしたかのように、

朝からひどく疲れていたり、という症状が始まりました。

そして、ある朝、起きると離人していました。

心が隔離されている感覚、体と離れている感覚、体が自分ではない感覚、

よく知っている感覚でした。

ですが、今回はもっと強烈でした。

ベッドから降りても身体が重く、歩くことが出来ませんでした。

這いつくばって洗面所へ行き、洗面台にしがみつきました。

感情もなくなり、生きてる実感がなく、心が泥沼の底に沈んでいるように重く、

ただロボットのように会社の仕事や依頼、家事をこなすのがやっと。

しだいに、死ぬことばかりを考えるようになっていきました。

とても良くない状態になっているのは判っていましたが、

もはや、原因や解決方法を見つけられる状態ではありませんでした。

私の思考は、小さな箱の中に閉じ込められたように狭くなり、そこから出られず、

問題を客観的にみるということが出来ない状態だったのです。

病院へ行けば、うつ病の診断で、即入院となるのは間違いないと思ったので、

行きませんでした。

入院すれば少しは楽になれるかもしれなかったですが、

私が入院などしたら、母と息子の二人になります。

息子に害があってはならない。

会社では一人部署なので、長期の病欠は職を失うかもしれない。

絶対に入院はできない。

「助けて下さい。もうだめです」

私は、神様に助けを求めました。

その後、依頼はなくなり、カメの歩みのようにゆっくりゆっくり、

回復していきました。


数か月たち、希死念慮はなくなり、離人もほぼ改善しましたが、心は虚ろでした。

心が動かないのです。

なにをしても、喜びは長くは続かず、心がすぐに固まってしまいます。

母との間で感じるネガティブな感情以外、心が動かない。

朝起きて義務と習慣で会社へ行き、淡々と仕事をし、帰宅し、夕飯の支度をし、

時々母がかんしゃくを起こし怒りと悲しみで疲弊し、寝る、という繰り返し。

ただ義務と習慣で生きている、ように思えました。

そして、依頼がなくなったために、経済苦もありました。

会社のお給料だけでは、家族3人の生活は成り立ちません。

母に生活費を入れてもらいました。

母は「お前なんか、私の生活費がなければ生活も出来ないくせに」

となじりました。

とても悲しかったです。

悔しかったです。

そして、私の尊厳を踏みにじる母に頼ることしか出来ない、

経済力のない私が情けなかったです。

生きているのが辛いと感じました。

「なんのために生きているのか」

「なぜ、こんな思いをしながら生きなければならないのか」

いつも、心のどこかにこの問いがありました。

このような状態が数年続きました。


セラピスト業は私の一部と感じていました。

絶対にやめたくなかったので、回復に合わせて依頼を受けていました。


この数年の間に、会社の理不尽さに気づきました。

一人部署だったので、有給をとっても出勤しなければならず、

更に残業手当は出ない、上からの業務の丸投げ、病気で1か月休むと左遷、

お正月に有給を取ると評価が下がり・・・

一事が万事だったのです。

私ひとりではなく、社員みんなが、なにかしらの理不尽を余儀なくされ、

それでも黙っていました。

限りなくブラックに近いグレーな会社でした。

よくある話、

働いていたら当たり前、

お給料もらえているだけありがたいと思え、

という人もいましたが、私には納得できませんでした。

その環境に身をおくことを自分に許可していること自体、

自分を大切にできているとは思えなかったのです。

仕事環境の改革を試みました。

ですが、古い体質の会社でしたので、私ひとりの力は及ばず、

改革は出来ませんでした。

この頃、母との間においても変化があり、

「母と一緒にいては、いつも悲しい思いをする」

ということは、「自分を大切にできていないということ」

に気づき、離れることを決めました。

以前の私には出来なかった選択。

母の依存、境界性パーソナリティー障害、さらに発達障害などを理解し、

物理的な距離をとらなければ、母とは適切な距離を保てないことを理解し、

自分を大切にする選択をしたのです。

「離れて暮らそう」

母は、やはり、

「親を見捨てるのか!」「親不孝もの!」「糞まくらえ!」などと

私をののしり、罪悪感を植え付けることで私を負かそうとしました。

どんなに説明しても、母には、私のはなしを理解することは出来ませんでした。

ですが、一番大切なことは、自分を大切にすること。

まもなく母は、近くのホームへ移りました。

そして、私は、グレーな会社も辞めました。



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